2015年3月11日水曜日

あれから4回目の3月11日・・・。(長文)

こんにちは,企画員です。


あれから4年経ちました。



皆さんは覚えていますか?



あの日、自分が経験したことを・・・。



今、街は復興に向けて進んでいます。



市民の方々も笑顔でがんばっています。

(2011年3月撮影)




 (2015年2月撮影)







でも・・・心で泣いている人も沢山います。





強がりなんかいうことないよ

やせがまんなどすることないよ

だれにえんりょがいるものか

声をかぎりに泣くがいい

ただひたすらに泣けばいい

-相田みつを-




今日一日は、笑顔でがんばっている人も泣いていいのではないでしょうか。

そして明日からまた前を向いて自分のスピードで進んでいきましょう。





今回は、いつものテーマから外れてしまいますが、自分の気持ちの整理

という意味も込めて「企画員の3・11~」をお伝えいたします。

長くなりますが、ご容赦下さいませ。




あの日の午前中は雲の隙間から太陽が顔を出し、「春も近いなぁ~」と

思いながら事務所(エースポート2階)で仕事をしていました。



(震災前のエースポート)




(震災後のエースポート)




 (震災後の事務所(片づけ後))


何やら外が騒がしく、どうしたのだろうと外を見ると「サンドウィッチマン」の

2人がロケをしていて、その様子を見てかなりテンションが上がりました。

お二人は見た感じ怖そうですが、事務所のベランダから手を振ると笑顔で

手を振りかえしてくれて、とても感じの良い方達でした。



この時は、まさか数時間後にあのような事が起こるとは少しも思っていません

でした。



午後2時46分突然大きな揺れが始まり、とっさに「これはヤバい」と思い

事務所のドアに向かって走り、ドアを開け、避難経路上にあったガラスケース

が倒れないように必死で押さえながら「ずいぶん揺れが長いな」と感じて

いました。



揺れが収まり、当時の事務局長から女性職員は避難するように、そして男性

職員は残るようにと指示がありました。

なぜ、男性職員が残ることになったかというと、我々の事務所があった「エース

ポート」は津波避難ビルに指定されていて付近の方々が避難してくる可能性が

あったからです。

津波が来るであろうことは予測出来ていましたが、震災の1年くらい前に南米の

チリで地震があった時の津波がこのような津波だったので、


(震災約1年前の津波)




(エースポート1階が浸水した様子)


「津波が来たとしても、ひざ上くらいかな(根拠は無し)」と勝手に判断し、

臼井主任(現在は次長)と1階にあったストーブを2階に上げた後、散らかった

事務所の片づけをしながら数分間隔位で海を見ると、見るごとに海面が下がって

いき、停泊していた小型船が海底にぶつかり斜めになった姿が見えました。

「ただ事ではない」と思うと同時に防災無線から「6mを超える大津波が・・・」

という放送が聞こえ、事務局長から「避難するぞ」という指示がありました。


街からは音や人の気配が全く感じられず、不気味に思いながら近くの紫神社へ

歩いて避難した 数分後に「バリバリバリ」という聞いた事もない音と共に自分達が

避難してきた道に沿って凄い勢いで海水と破壊された建物の木材がこちらに向かって

流れてきました。
(携帯で撮影)
気仙沼小学校横の道路から海の方を見てみると、ある建物は形を無くし、

 
ある建物は形を残したまま視界の中を移動していて、どうしていいか

 
分からない状態でその様子を見ていると、空から大粒の雪が降ってきました。

(携帯で撮影)

雪の中30分歩いて自宅に戻り家族の無事を確認し、日没後、職場の人達の一部
 
が避難している気仙沼小学校へと行きましたが、停電で暗かったのと沢山の人達が
 
いたので発見できず、ふと海の方を見ると大火災が発生していました。

(携帯で撮影)

その後、自宅に戻り6畳の部屋の中央にろうそくを立て、ラジオから流れてくる

 
情報に家族と共に夜通し耳を傾けていました。
 
 
それから数日後、我々は事務所を気仙沼駅前観光案内所へ移しお客様(ボランティア
 
の方)や情報を求めてやってくる地元の方への対応を開始し、私は時間を見つけては
 
社会福祉協議会のボランティアセンターへ行き、全国から来てくれたボランティアの
 
方々と一緒に活動しました。
 
ある時はお医者さんと看護士さんを乗せて介護の必要な方々の所へ行ったり、
 
家の中に溜まった泥をかき出したり、とにかく自分が出来る事をやるという気持ちで
 
活動しました。



(幸町・仲町付近の道路(6月頃))


 
避難所では、市職員の方々を始めとして多くの方々が自分の事はさておき避難所の
 
運営を行ないました。
 
街の中を見渡してみると、自衛隊の方々が市民の為に水を運んだり、避難所での
 
炊き出しや津波で流されて来た物を撤去したり・・・。
 
そして、警察や消防の方々は捜索活動を行ない・・・。
 
皆さん気温が高い中、汗を流しながら懸命に作業を行なってくれました。
 
自衛隊の方々は学校の校庭にテントを張って生活し、警察、消防の方々は気仙沼から
 
遠く離れた場所に宿を取り、疲労困ぱいにもかかわらずこの街を助けてくれました。
 
その他にも色々な個人・団体の皆様方が炊き出しや支援物資を持ち込んだりして
 
くれました。
 
皆さんに共通するのは「助けたい」「何とかしてあげたい」という気持ちを持って

 
くれているというのが体全体からにじみ出ていたという事です。



そして、現地には行くことは出来ないけど何とか役に立ちたいと募金してくれた


皆さん。
 
 
ちっぽけな自分がこのブログで感謝を伝えても届かないと思いますが

 
今でも「ありがとうございました。」の気持ちは忘れずにいます。
 
 
 
 
 
 

気仙沼市を助けに来てくださった皆様、お元気ですか?

 
今度はご家族の方も連れて遊びにきて下さい。

 
 
 
 
 
 
そして、今でも継続的に支援してくださっている皆様、本当にありがとう

 
ございます。
 
 
 
 
 
あれから4回目の3月11日・・・
 
 
 
 
気仙沼市総合体育館では追悼式典が行われ、夜9時の防災無線では坂本九さんの

 
「見上げてごらん夜の星を」が流れます。






僕は、今でもあの時の出来事やあの時思った事を忘れずに生活しています。



 
皆さんは4年前の事を覚えていますか・・・?



 
 
 
 
 
 
 
 
 
※お知らせ
 今回のブログをもちまして、企画員は「けせんぬま”港まち便り”」を卒業


 します。
 
 
 数回ではございましたが、ブログをお読みいただきましてありがとう


 ございました。
 
 
 
 「教育旅行ブログ」は続けますので、よろしければそちらもご覧くださいませ。













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